春にして君を離れ  アガサ・クリスティー

この本を最初に読んだのは、たぶん20代の最初の頃だったと思う。
それ以来この作品は、ずっとずっと、一生手元に置いて、
何度も読み返したいと思える数少ない大切な作品の一つとなった。


アガサ・クリスティーの作品だが、推理小説ではない。
妻として、母として、充実した人生を送ってきた中年のイギリス人の女性が、
話す人も読む本も見るものもない砂漠で数日を過ごすという物語だ。
いつも優しい弁護士の夫がいて、
愛する子どもたちはそれぞれ結婚して独立した。
家族にも隣人にも愛され、尊敬されている自分に満足していた人生のはずだった。


しかし、砂漠でたった一人、自分と向き合わざるを得なくなる。
そのような状況の中で、否応無く自分の心の中に降りていき、
一つひとつ、真実を見つけていく。


本当はすべて見えていた。わかっていた。
でも、見ようとしなかった。わかろうとしなかった。


見たくない、わかりたくない。
その葛藤の中で、主人公が真実にたどり着くまでの過程は圧巻だ。
そして、その後の主人公の決断と行動も。


初めてこの本を読んだとき、私は自分の母のことを思い出した。
母にこの本を読んでもらいたいと思った。


そして今。自分が40歳になってもう一度この本を読んだとき、
私は自分のことを考えた。
私がよかれと思ってやっていることは、
家族や友人に投げかけている言葉は、
いったい相手にはどのように響いているのだろう?
私は、自分が大事だと、愛していると思っている相手のことを、
本当にわかっているのだろうか。


主人公の恩師の言葉が胸に響いた。

「安易な考え方をしてはいけませんよ。ジョーン。
 手っとり早いから苦痛を感ぜずにすむからといって、物事を皮相的に判断してはなりません」


早く悩みから開放されたいという気持ち。
本当のことを知るのがこわいという気持ち。
ついつい、皮相的に判断してしまいがちな自分がいる。


考えることを怖がらない勇気を。
大切なことから目をそらさない覚悟を持つことを。
それらを忘れそうになったとき、
またこの本を手にとろうと思う。


春にして君を離れ (ハヤカワ文庫 NV 38)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫 NV 38)