ポプラの秋  湯本 香樹実

この人の本を立て続けに読んで3冊目。
今度は小学校1年生の女の子と、大家のおばあさんを中心に綴られた物語。
またもや偶然にも自分の子どもと同じ年の子が出てきたので、
ついつい、自分の子と重ね合わせて読んでしまった。


父親を亡くした女の子が、
母と2人、ポプラの木のあるアパートに引越し、暮らし始める。
そこで出会った大家のおばあさんは、見た目はなんだか怖くて。
それでも、少しずつ少しずつ、心を通わせあっていく。
そして、少女は亡くなった父にあてて手紙を書き始める。

大家のおばあさんは、もしも私があなたへの手紙を書いたなら、持っておいて、
と言ってくれました。
手紙というのはやはり、郵便屋にしろ、海に浮かぶ瓶にしろ、
何かに運ばれて行ってこそ、書いた者の心がほんとうに解き放たれるものなのだから、と。


これは、少女のお母さんが、亡くなった夫にあてて書いた手紙。
「書く」ということは、たしかに心を解き放つものだし、
自分の心を見つめなおして、整理するために大切なものだ。
誰にもいえないことや、心の中のもやもやを、
私もいつの頃からか、書いて整理するようになってきた。


でも、書くだけではどうにも心の傷や隙間を埋められないこともある。
誰かに伝えないと、本当に解き放たれないこともある。
おばあさんの存在が、どんなに少女にとって大きかったか、
救いになったかと考えると、読んでいる自分まで救われたような気持ちになる。


それにしても、この人は子どもの気持ちを
書きあらわすのが、なんて上手なんだろう。
そして、子どもたちだけでなく、周りの大人たちの心も
優しく包む老人たちの姿も。


そして、誰もが抱えているであろう、
小さな「後悔」の気持ちをあらわすのも。


「どうしてあのとき見ようとしなかったのだろう」
「どうしてあのとき言わなかったのだろう」
「どうしてあのとき、きちんと向き合わなかったのだろう」
「どうしてあのとき会いに行かなかったのだろう」
小さいけれど、もうやり直せない、いつまでも心に引っかかっている、
そんな、後悔。


たとえば、先日、食事の席でとても嫌な客と隣り合わせて、
すごく嫌な気分になってしまった。
何か言ってやりたかったけれど、何と言えばいいかわからなくて、
結局何も言わずに、どうにも悔しい思いだけが残ってしまった。


その悔しさとは、おそらくもしあの場にいたのが俺様だったら、
あの客はあんな態度は取らなかっただろうと思ったから。
そして、それでもあの客がもし、あんな態度を取っていたら、
俺様だったら絶対黙ってはいなかっただろうと思ったから。


私は、自分があんな人になめられて軽く見られたということと、
自分に勇気がなくて、あんな人をのさばらせてしまったことと、
ああいう場面に気の効いたことを言ってぎゃふんと言わせられなかった
自分の頭の回転の鈍さに、
猛烈に自己嫌悪に陥ってしまった。


でも、たぶん、自分の家族が目の前で誰かに嫌なことをされていたら、
私は「気の効いたこと」なんて考える余裕もなく、
向かっていったんだろうなと思う。
どうして自分のことになると、こんなに臆病になってしまうんだろう。


と、ずいぶん話がずれてしまったのだけれど。
私がこの湯本さんの本を読んでとても感じたのが、
誰もが生きて行く上で感じるささいなことや出来事を、
作品として昇華できるということは、
なんてすばらしいことだろうということだ。
そして、それができるということに、
とても憧れるし、うらやましいと思った。


自分の思いは、もちろん、自分一人の胸の中におさめたいときもある。
でも、やっぱり、誰かに届けることで昇華できることもある。
だから、私もブログで日記を書いたりするんだろうなと思う。
この本の中で、それは大家のおばあさんの役目であったわけだけれど、
作家は、それを作品として世の中の人に届けることができる。
私も、そういう才能が欲しかったなあと、しみじみ思う。


ポプラの秋 (新潮文庫)

ポプラの秋 (新潮文庫)