コールドゲーム  荻原 浩

「愛しの座敷わらし」がなかなかいいなあと思い、
同じ著者の本がちょうど図書館にあったので読んでみた。


ストーリーは、高校3年生になった主人公光也の
中2のときのかつての同級生たちが次々に襲われたことから始まる。
犯行予告によると、中2のときにみんなでいじめていた
トロ吉の復讐であるらしい。
しかし、肝心のトロ吉が行方不明であるために
光也たちはイジメの主犯格だった亮太たちとトロ吉を探そうと
「北中防衛隊」を結成する。


イジメのやりきれなさ。
それは、イジメを受けた側の心と身体の傷の大きさに比べて
あまりにも軽い加害者側の罪の意識。
イジメをした側は、数年後にはイジメた相手の名前も顔すら忘れている。
そして、ゲーム感覚。
「北中防衛隊」ですら、ゲーム感覚で楽しんでいる。


「いじめられる方にも原因がある」
「いじめられたから復讐しようなんてことが悪い」
でも、自分がイジメをしていたこと、見て見ぬふりをしていたことは
人には言えない。罪悪感はあるのだ。
でも、その罪悪感すら、いじめられる相手のせいだとすりかえる。


イジメた側の人間も、普通の子たちなのだ。
将来を考え、友人関係や恋愛に悩み、親との関係に悩み、
それなりに人生を考えて生きている。
ただ、イジメに加わらなかったり、いじめられている子をかばったら
自分が嫌な目に合うからというだけのことなのだ。
そのうち、悲鳴は聞こえなくなり、目の前のイジメは
日常の光景になって見えなくなる。


でも、いじめられた側は、将来を考える前に、友人関係や恋愛に悩む前に、
その前に自分を全部否定されてしまったという
どうしようもない絶望感と虚無感にさいなまれ続けるのだ。


私も、今まで転職したりしていろんな会社を見てきたが、
そこで感じたのは、いじめの起こる会社というのは、
やはり起こるべくして起こるのだなと思った。
その集団の中に流れる不満。抑圧。苛立ち。
自尊心を否定され続ける空気の中では、
他の誰かを否定することでしか、
自尊心を守ることができない。
だから、弱い人、みんなとちょっと違う人を否定することで、
自分を守るのだ。
人は一人ひとりみんな違うのに、
それを認める余裕がなくなるのだ。


こういうイジメの話は、本当に読んでいてつらい。
でも、目をそらしてはいけないんだと思う。
誰もが加害者にも被害者にもなりうるイジメは、
きっと生きて社会生活を行う限り、一生無関係ではいられないから。


コールドゲーム

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